DD再考〜「DD」は国民性か〜

 例えば、あるアンケート用紙の文面に「あなたの推しは?」という項目があって、メンバーの分だけ選択肢がずらり並んでいる。一番下に「その他」がある。複数選ぶ場合は「その他」の横に設けられた空欄に詳しく記入するよう注意書きもされている。

 「その他」自体にはあまり意味がない。重要なのは「その他」の空欄に何を書き込まれる内容だ。回答を見ると、そこには「なっちと矢口とあやや」など甲乙つけがたいメンバーの名前が列挙されている。2、3人の名前が書かれた回答もあれば、「全員好き」という欲張りな回答もある。空欄に同じメンバーの名前を書いた人の中にも「娘。とあややのグッズは買う」や「ハロプロすべて買う」、はたまた「何も買わない」という人もいる。「その他」を選んだ人の数だけ細かく分けていけそうだ。

 〜この「その他」が「DD」に該当するんじゃないのかな?〜

 「DD」という言葉それ自体には「唯一至高の推しがいない者」という大雑把な意味くらいしかないように思う。同時に広範な意味を持っている。選択肢は組み合わせ次第でいくらでも広がる。それに一度出した回答も一定ではないはずだ。コンサートやテレビや雑誌などを通して彼女たちに接触するたびに変化が起きる。味覚や視覚など人間が頼りにする五感だって気分や体調で変化するくらいだから不思議なことではない。それらすべてを書き込もうとしたら空欄内ではとても収まりきれないだろう。これらを人に理解してもらうにはかなりの時間と労力が必要になる。初対面の人になどほぼ不可能だ。「DD」はこの手間を省く非常に便利な言葉だ。

 それに尋ねた相手の時間を長い自己紹介のために奪うことを避けるため、便宜上、自分を「DD」と簡潔に紹介せざるをえない。なるほど「DD」は思いやりの言葉という側面もあるかもしれない。

 ただ、そう答えられても、その人だけが持つ情熱のかけらも伝わらない。それに比べ、1推しというのはとても分かりやすい。ただメンバーの名前を口にするだけで、膨大な情報を伝えることができる。

 「推す」という行為には信仰と通ずる部分がある。一種の宗教と言っていいかもしれない。宗教はあの人が生まれ社会風土や、施された教育、愛する文化、好む料理、信ずるものや価値観などを教えてくれる。漠然とだが、その人のイメージを掴むことができる。

 その意味で「DD」は“無宗教”だ。相手に雲を掴むような印象を与えてしまう。「自分はDDです」と言われてもリアクションに困ってしまう。申し訳ないが「自分は人間です」くらいの意味にしか聞こえない。「DD」は推しのカテゴリーではなく、「唯一崇高な推し」がいない人々の総称でしかないから、その人がこれまでどんな時間を過ごしてきたのか、全く見当がつかない。なんの情報も手にすることができず、その人に関する詮索は停止状態に陥ってしまう。自らの属性を説明するに「DD」という言葉はあまりに無力すぎる。

 「DD」が蔑称と使われているのもこのあたりに原因がある。よく言われることだが、イスラム圏に足を踏み入れる際、入国カードの宗教欄を空欄にしてはいけない。無宗教の者はイスラム原理主義者からみれば人間以下の存在であり、動物同然に扱われることもあるからだ。同様のことが我々の世界でも言えて、1推しがいる者、特に熱心な人には、推しがいない人が「不埒者」に見えてしまうことが多々ある。同じ推しではなくとも、他に「唯一至高の推し」がいるならばその人を認めることができる。イスラム社会でもキリスト教徒やブッティストにはそれなりの敬意を払うのと同じ現象だ。

 そう考えると「DD」は、七五三や初詣でで神社にお参りをし、結婚式は教会で挙げ、葬儀を仏式で執り行う日本人の宗教観そっくりだ。諸外国からよく節操のなさを指摘されるが、同じ批判が「DD」と称する人々にも向けられてきた。「DD」は国民性。これはあながち否定できないかもしれない。

 もはや「DD」という言葉は古くなった。ハロプロには45人もいる。これは「DD」という言葉が生まれた当時の2倍以上だ。心に決めた1人以外見向きもしないという方が不自然な時代。「DD」という言葉は役目を終えたように感じる。

 「便利な言葉」「思いやりの言葉」「無力な言葉」「古い言葉」。

 この言葉に愛着を感じている人もいるし、代替可能な言葉が発見されない限り、今後も「DD」と名乗る人と出会い続けるだろう。そんなときは「その他の欄」にどんなことを書いたのか、そこに耳を傾けるよう心がけたい。
 (娘。楽宴に「櫻井だいき」名義で投稿もの)