娘。×個人主義

「田中さんさえ良ければ、他はどうなっても良い」


油断すると、思わず本音が出てしまう。そう呟くことで少し楽になる。森を見ず、木ばかりを眺めている己の不甲斐なさを肯定しているのかもしれないし、慰めてもいるのだろう。個人だけを見て楽しむことの是非については判断できないが、少なくとも、昔の自分とは断絶している。それが寂しい。



モーニング娘。という「ドラマ」があるならば、ボク個人はその登場人物ではない。メンバーを介してそのドラマなるものに関わろうとしている。その点では、推しメンは「自分そのもの」かもしれない。呟いた本音は「自分さえ良ければそれでいい」という個人主義に言い換えられそうだ。



個人主義が台頭した90年代。その時代に登場した「モーニング娘。」は、やはり異質だった。モーニング娘。は汗臭い組織の中で起こる物語が魅力。この時代との若干のズレが、人々の琴線に触れ、大きな共感を呼んだ。人はいつもズレを求めるからだ。個人主義のアンチテーゼとしてモーニング娘。は存在していた。ならば、その個人主義に陥ってしまったボクは、モーニング娘。の本質的な楽しみ方を忘れてしまった不幸な存在なのだろう。今はその表層しか見ることができないのだから。